家のお座敷に通されたらしいのは私の知らない人。それは決して珍しいことでも無かったし、お客さんが来ることも少なくはなかった。だから私もいつも通り、大して気にも止めなかった――というか何一つ気にせずお客さんが帰られるまでは自室に閉じこもりのんびりと、もしくは外出しよう何て思っていたのだけれど
「えええ、何で私がお茶だししなきゃ駄目なの!?」
今日と言う日はどうにも一体何なのか。いつもはうるさく言わなかった母親が今日だけは意地でも私を出させようという気らしい。お茶だし一つに何を駄々捏ねているの、なんて切り返しには全くもってその通りなのだが、いかんせん私はしずしずおほほな雰囲気は得意では無かったし、出来ることならご遠慮願いたい。
「家にいるなら手伝えってこと!?よしきた出掛けてくる!」
踵を返して家を飛び出そうとするもそうは問屋が下ろさない。服の襟元を捕まえられて、私の足が玄関へ向かって進むことは無かった。
何を恥じらうお年頃の女学生。むす、と頬を膨らませる少女の手に在るは煎れられたばかりのお茶。仕切りの向こうでは聞き慣れない低い声が父親と対談しているのが微かに聞こえる。親戚の知り合いとかならともかく、今日のお客さんは私に一切の面識も無いのだけれど。はあ…、と静かに肩を落としていると、背後からさっさとお持ちしろと言わんばかりの視線を感じたので(恐らくでなくとも母親のものだろう)仕方なく背筋を伸ばした。
しかし、はて。聞こえてくる声に少女は首を傾げた。低いことから我らがお客さまが男性であることは分かりきっているが、時折聞こえる受け応えの声は寡黙な性格なのか最低限と言っても良い程短い。そしてその声は何処か幼くも感じたものだから、すっかり父親と同じくらいに年配な人だと思い込んでいた少女はそこで始めてお客さまへと興味を持った。
「失礼します」
興味は在れど緊張が無くなるわけでは無い。少しひっくり返った声にあっちゃあ、と背中に冷や汗が流れるも表情はあくまでしずしずとした雰囲気でポーカーフェイス。下げた頭を上げてみれば、何とも今し方の声のひっくり返り様に苦い顔をした父親が視界の端に見えた。なんだよ畜生なにみてんだよ。
しかしそんな思考を、すぐに奪われることとなる。特徴的な黒髪に、少し黒めの肌。キリッとした眉の下に構えるは、女の子が見たら嫉妬しそうな程に、大きなパチリとした瞳。透き通った瑠璃色の瞳と目があった瞬間、少女は電流が走ったような感覚を覚えて、一瞬頭の中が真っ白になってしまった。
「…っ、」
思った以上に、というよりは完全に不意打ちだった。年配では無いと判断したものの、なんということか、目の前のお客さまはどう見ても――青年では無いか。年が近そうという問題ですら無い。今までこんな若い人が来ることはあっただろうか、顔こそ出さなくても遠目に確認していた中でこのパターンは無かったと少女は思う。不意打ちだったせいか、それとも相手の瞳に吸い込まれてしまったせいか、呆然と青年を見上げる少女に彼女の父親は小さく咳払いをした。
「これ、。そんなに見つめては失礼だろう。」
「ッみ、…失礼しました。」
前言撤回、恥じらう乙女。年近し青年を見つめていたなどと言われて否定の言葉を口にしようとするも、相手はお客さま。取り乱すことは許されず緊張のせいかギクシャクしてしまう動きのままそっとお茶を出す。私えらい、超えらい。内心暗示をかけながら。
「…粗菓ですが、どうぞ」
「ありがとう」
お茶を出している間ずっと感じていた視線は紛れもない瑠璃色だと言うことは気付いていた。止めろお願いだからこっち見るな緊張するだろ手が震える!いっそのこと机をひっぺ返してしまいたくもなる衝動を堪えていると、不意にかけられた感謝の言葉。それは確かに自分に向けられたものであり、仕切り越しに聞いていた声だった。
「っ、」
「遊星君、不束ながら私の娘のだ。」
その後、自分がどうしてあの場を切り抜けたかは覚えていない。ハッとしたのは丁度お座敷を後にした所で、吹き飛んでしまった記憶に溢れ出ているであろう失態には頭を抱えた。
こんなことならもっと積極的にお茶だしくらい手伝っておくんだった。私の馬鹿!阿呆!決めた、私もうどんたくは家にいないぃいい!!お茶を運ぶ為に手にしていたお盆で自分の頭を叩き続けて悔いるを、母親が見つけて止めに入るのはもう少し後のことである。
「見送り、だと…」
相手が自分に近い年齢のせいか、以降自分が彼と顔を合わせることなど一切無いだろうと分かっていても気にせずにはいられない。あの後ひたすら自室に閉じこもっていたが少しだけ気分を落ち着かせた頃、母親から告げられたのは彼女にとって絶望の他ならなかった。
「おおおお願い無理ほんとう無理」
いつもお転婆な彼女がブンブンと首を振って請う様にすがる姿は珍しく、母親は言葉を詰まらせるも苦渋に満ちた表情で彼女の肩を叩いた。お客さまがね、言ってらっしゃるの。その一言には目玉がポーンと飛び出てしまうのでは無いかというくらいに大きく目を見開いた。つまり、ご指名だと?あの失態を晒したにも関わらず?え、えぇええええ…!!
「(大丈夫やれば出来る私頑張れお前なら出来る大丈夫)」
頭の中で母親に教えてもらったお見送り方を何度も復唱しては繰り返す。お客さんはもうすぐお座敷から出てくる様子の中、私は先に玄関へ出て彼の外套や帽子を手に待つ。男の人の服は当り前だが大きい、父親のものと大して印象など変わらないはずなのに、お客さんの物だと思えば酷く違和感を感じた。っていうかこれ、出てきたお客さんに「うわ触るなよ」みたいな視線向けられないだろうかいやでもあっちから言ってきたんだしこれが当り前で、っていうか何だろう何言われるんだろう。
そんなことを考えていると仕切りの開く音と終わりを告げる会話。は身を固くした。
「すまない、自由な時間を邪魔して」
「いえ…」
まさかの玄関に二人きり。本当にこの人何を言ったのだろうか、お客さまを娘一人(しかも作法はてんで駄目)に見送らせるなんて聞いたことない、ぞ。
視線を合わせないのも失礼かもしれないが、は伏せた顔を上げられなかった。く…っこれで本当に「触るな」みたいな顔されてたらどうしよう、いやでも見なきゃ確認も出来ないんだよねああでも…、はい無理ー。
靴を穿かれる前に外套を、母親に言われた言葉を思い出しはその手にもった服を青年の背中に向かって広げた。
「ど、どうぞお召し下さいまし…(噛んだぁあ!!)」
正直逃げ出したい。机をひっぺ返したかった先程と同じように、今すぐ持っている帽子を青年に投げつけて逃げ出したい衝動が身体中を駆け巡る。
「ああ、ありがとう。」
少しだけ笑いを含んだ声、バレてる。噛んだの確実にバレてる。青年が身長が自分よりも高い為、下から引き上げて着せてあげる。さてあとは帽子を渡して彼が立ち去るのを待つのみ!大変失礼極まりないがこれ以上私が失態を晒す前に帰ってくれと願っていると、あろうことか青年はそのまま外へと足を向けてしまったでは無いか。
「あ、あの帽子…っ」
追いかけて飛び出した太陽の下、吹き抜けた風に一瞬こそ目を瞑る。風に乗ってやってきた薄紅色に色づく桜が雪の様に舞散る様をほう、と二人して見上げてしまった。
「…あ、」
不意に青年へと瞳を向ければ、今の風で被ったのだろう、外套の肩口にくっついている花びら。それに気付くが早いかは躊躇いも無くそれに手を伸ばした。
「……」
感じた視線につられて顔を上げれば、きょとんとした瑠璃色の瞳が此方を見ていた。一瞬こそ首を傾げそうになるも、は自分の失態に気付いて慌てて頭を深く下げた。
「!ご、ごめんなさいっ」
見知らぬお客さま相手に馴れ馴れしく触れるなどと、いくら花びらを取る為とは言え、失礼なことに変わりは無い。余計なことするんじゃなかった、と滲み出る普段の行いを悔いる。行儀作法が苦手なことは目の前の青年もとっくに気付いているだろう、取り繕ったお淑やかさなど至る所で綻んでいるのだから。
「いや…俺は怒っていない。頭を上げてくれ。」
「…」
そろりと青年を見上げながら、は一つ気付いたことがあった。お茶をお出しする前に聞こえた彼の受け応えは最低限と言っても良い程短いものだった。寡黙な性格と想像したのは当たっていたようで、否、それとも私と彼が親しくないだけだからか。ともかく彼は親しくない相手に対して、決して言葉をずらずらと並べることは無い。言いようによっては話が膨らまず、相手に失礼とも取れるわけだが、彼においてはそうならないらしい。現に、今は自分の失態による居たたまれない感はあるものの、彼と話しづらいとか、馬鹿にされているような雰囲気は一切感じなかった。優しいのだ。声が、雰囲気が。
世の中こういう人もいるのかと関心するを他所に、青年は恐らく珍しいであろう、自分から話題を振った。
「家族には、ああなのか?」
ああ、というのは今の花びらを取った行動の――馴れ馴れしい態度のことだろう。彼は家族なれど上のものに対してのこの対応は如何な物だと非難したいのだろうか。そこまで考えてから、は自分の考えに首を振った。彼の纏う雰囲気は決してそんなものでは無かった。だからこそ、は少しの沈黙の後にでも素直に首を縦に振った。
「………はい。」
「そうか」
いつもだったら何かを払う為であれ親のものでもバッシバッシと叩いたり悪戯をしかけたりすることは知られざる所にしつつ。返ってきた返事はやっぱり最低限のものだったけれど、始めて見た彼の瞳を細めた穏やかな笑みに、は間抜けにもポカンとしてしまった。
「…どうぞ、お帽子を」
あっちが「さよなら」と言うまではこっちから言っちゃ駄目。差し出した帽子を受け取った青年の手は当り前だがのものよりも大きかった。被ればすんなりと、特徴的だった彼の髪の毛は帽子の中で息を潜めてしまう様子には呆然としてしまった。脱いだ瞬間ひょっこり出てくるあの髪とか、正直慣れるまでは笑い転げる自信がある。
「」
その声で初めて呼ばれた自分の名前。どうして知っているんだろうとも思ったが、そういえばお茶を出しに行った時に父親が言っていたような気もする。そうだ、その時呼ばれていた彼の名前は――
「俺の前では、無理しなくていい」
「うえ、」
あまりに予想だにしなかった言葉に、思わず素っ頓狂な声が出てしまった。取り繕っている行儀だとバレているとは思ったが、まさかしなくていいと言われるとは。
伸ばされた彼の手が私の前髪を撫でる。足が地面に根付いた様に動かない。退くことも、やけにドクドクと脈打つ心臓をどうすることも出来ずにただただ戸惑いながら眺めていると、目があった彼はふっと、笑った。
「これで一緒だな」
離れた彼の手には、私が先程彼の服から取ったのと同じ、花びらが一つ。かああっ、と顔が熱くなったのが分かった。
「今度、良かったら一緒に出掛けないか。」
「し、しししし失礼致しま、た!ごめっ御免下さいましッ!!」
穏やかな瞳に赤い顔を見られたくなくて。もう何がなんだか分からなくて。此処まで来たらそれこそ礼儀作法なんて関係ない。相手をお見送りしきることもせずに踵を返して駆け出したを、青年は彼女が聞く初めての声量で呼んだ。
「!」
風の音に消されないその声。ビクリと肩を揺らして立ち止まったの背中に、青年は静かに問いかけた。
「俺の名前は、知っているか?」
「……ゆうせい、さん」
振り返ることは無い彼女からしどろもどろに返されたのは、ぎこちない声。どんな表情しているのかは分からない、けれど。
「」
「………。」
「俺は、自然なままのお前に会いたい」
きっと彼女は自分の想像する以上のお転婆さを隠し持っているだろう。袖口から垣間見える握りしめられていた彼女の掌が、そっと開かれたのを見届けて、青年はまたなと踵を返して歩き出した。
「………遊星!」
背後から聞こえた、彼女の初めて呼んで自分の名前に口元を緩ませながら。
桜舞い散る中で君を知る
(伸ばされた指先を思い出すだけで心が熱くなる)
どんたく:日曜日のこと
螢さまより大正浪漫ネタをお借りしました^^
20120408