歩幅の違う足を揃えて、お洒落な煉瓦道の通りを歩いている時だった。
暖かく降り注ぐ太陽の日差しと、少しだけ冷たい秋風が頬を擽るのが心地良い。二人分のブーツが、図らずしもコツコツと音を奏でるのが楽しくてつい頬を緩めていると、不意に聞こえてきたのは聞き知らぬ声の親しんだ人物名だった。
「ねえ、あの人ってもしかして不動遊星じゃない?」
――デュエルキングの。
知らぬ声がそう続ける頃には、は釣られる様に顔を上げていた。大通りに面していなくても昼下がり、そこそこの人が行き来するシティの一端であったが、特定するに関しして大して迷うことは無かった。の視線の先には、よく知る友人と同じ、デュエルアカデミアの紅い制服に身を包んだ、自分と然程年も変わらないであろう女の子が数人。少し距離こそあるものの、興奮した様子で憧れを捕らえた瞳が此方を見ているのがよく分かる。先程の発言が彼女たちの内の誰かのものであるのは間違いないだろう。…さて、此処で一つ訂正と言っては何だが、正確には、此方を見ているというよりは、私の、隣である。
いくら幼馴染兼恋人の名前だったとは言え、私でさえ顔を上げたのだ。隣に立つ名指しされた本人が聞こえなかった何てことは無いだろう。女の子たちを一見した後、振り返って見上げればパチクリと瞬きを一つした群青色の瞳がゆっくりと視線を絡めてくる。その瞳の奥が何処か強張っている様な、そんな不自然さを映していることにただただ私は首を傾げた――が、その訳は今に分かることとなる。きっと遊星はこの後起こる事態を何処となく察していたのだろう。それでもすぐに行動に起こさなかったのは、勘違いであって欲しいという彼なりに穏やかな昼下がりを壊されたくないという願望からだったのだろうか。まあどっちにしてもぶち壊されたけどね、ドンマイ!
少し間、現実逃避とも言える私における不動遊星とデュエルキングという称号についてのお話にお付き合い頂こう。
此処で知っておいて欲しいのは、私にとって彼のその称号は単なる後付にしか過ぎなかったということである。これは私で無くとも、ジャックやクロウ、京介やラリーなどサテライトにいた頃からの彼を知っている人物全員に当てはまると言えるだろう。もちろん、デュエルキングとただ一言で片付けてしまっても、このデュエルの盛んなネオ童実野シティにおいて、この称号が如何程の意味を持つのか分かっていないわけでは無い。しかし、元々キングとして君臨していたジャック・アトラスも、彼を倒してニューキングとなった不動遊星の双方とも知り合い、もとい幼少の頃から時を共にした所詮幼馴染ともなれば感覚が麻痺していても致し方ないと言えるだろう。そう思えば、私は昔からデュエリストに恵まれ過ぎている方だ。クロウだってキングの座を狙おうと思えば、それはもう負けず劣らず攻防を魅せてくれる事だろう、BF怖い。…そんなわけで、私にとってこの出来事は「友人がキングを倒した」というよりは「友人が友人を倒した」という、幼い頃からよく見てきた日常の一コマの様な出来事にしか過ぎなかった。当の本人たちにとっても同じことらしく、「キング」では無く「ジャック・アトラス」を倒すことを目的とした遊星がその称号に興味を持つはずが無かった。少なくとも、私たちにとってはその程度だったのだ。けれども、周りがそれで頷くはずも無いのが現実である。さて、そろそろ現実逃避にも一旦区切りをつけようか。正直な所、出来ることならばその辺の壁伝いに設置されたベンチに腰ろ下ろして日が暮れるまでどうでもいい現実逃避の言葉を並べて尺を引っ張ることが許されるなら喜んでそうしたい。が、どうにもそういう訳には行かないらしい。まあ此処までは分かる。しかし、だ。
「わ、本物!?」
「サイン下さい、サイン!」
あの後あっという間も無く出来上がった、キャアキャアと黄色い声を飛び交わせる女の子の群れを前に、私に一体どうしろと言うのか。
あんぐりと口を開けて、女の子たちに囲まれる遊星をはただただ呆然と突っ立って眺めていた。開いた口が塞がらないとはまさにこのこと、私は白昼夢でも見ているのだろうか。まるで人気アイドルや有名人の様な扱いを受けているその中心人物が、遊星だということを忘れてしまいそうになる。お、おーおー…みんな可愛らしく頬染めちゃってさ…え、サイン?遊星という人物とサインという単語がイコールで結びつかなかったは、聞こえてきた言葉に独り、目に見えて動揺した。え、エェエエエ…!サイン?サインってなに!?サインって、…というか近くね?ばっ、止め、あっ私も後でサインもらっとこう、いやそうじゃなくて!ここで現実逃避二回目とも言われてしまいそうだが、心理フェイズに移行しようと思う。首都圏と言えるこのネオ童実野シティに、有名人がいることは何ら珍しいことでは無いだろうに――いや待て誰が有名人だ?遊星?遊星ってあの不動遊星?私のよく知る不動遊星?絆で釣れば何処までも飛翔してしまえそうなあの…アッ駄目だ連呼し過ぎてなんか遊星がゲシュタルト崩壊してきた。と、とにかくだ。有名人というのはもっとこう…ミスティみたいにトップスとかで優雅に暮らしてて、市民街とかでは早々見かけないような人のことを指すんじゃないの?一般人の前に出なくとも忽ちフラッシュが焚かれ、そう、まさにフラッシュラッシュみたいな。あッ私今うまいこと言ったわこれ今度みんなに自慢してやろう。…いやそうじゃなくて!この人毎日ガレージで機械と向き合ってる引きこもりですけど、エンジン爆発させてご近所さんに迷惑かけてるような人ですけど。ノックなしに入ってきて突然喋り出した相手に動じもせず「はい」とか言っちゃうちょっと頭の可笑しい人ですけど。ていうかそもそも放っておけばカップラーメン生活してそうな有名人ってなに?で?そんな人が?サイン?えッ誰に?誰が?えッ?
――そこまで思考を巡らせてから、はハッとしてブンブンと首を振った。心理フェイズ終了の瞬間である。今はこんなことに突っ込みを入れている場合ではない、この際遊星が有名人か否かはもはや問題ではないのだ。とにもかくにも目の前の人だかりから彼を助けるべきで、……、いや、これ、助けた方がいいんだよ、ねえ…?心なしか心理フェイズに移行する前よりも若干人数が増えている気がしないでもない群れにの足が自然と一歩下がる。こ、こっえー…。うん?いや待て、そう言えば遊星が囲まれる前に駆け寄ってきた女の子たちに押し退けられる前に何コイツみたいな視線を寄越された、気も、しないでもない。……、こ、こっえぇええー…!本音だった。出来ることなら触らぬ神になんとやら宜しく何も見なかったことにして帰りたい、帰りたいが、だ。一応遊星との間柄を考えるとこの選択肢は一般的にアウトなのだろう。いやいつも私の行動って大体アウトオブアウトだし良くね?え、駄目?でも此処「何よ他の女にデレデレしちゃって!」とか言ってプンスカ怒って帰れるシーンじゃないだろ絶対…むしろ帰った後で私が土下座フラグだよ。どうする私、どうする…。何にしても強張ったあの遊星を瞳を見てしまったのが敗因だよ。近くのベンチで現実逃避をしながら事が収まるのを待つことも許されない私には、どう足掻いても大群に特攻する選択肢しか用意されていないらしい。よ、よし落ち着け、落ち着いて今の私の装備を確認してみよう。ディックに誘われて遊星と共に参加したストリートタッグデュエルをした時のまま左手に装着されているデュエルディスクと、…と。…オンリーじゃないですかやだー!はいはい女の子相手にデュエルディスクで切り込んでいけるはずも無いので引っ叩かれないレベルで頑張りますよ!お、おおお女は度胸!あれ、愛嬌?
「…っ、!」
掴めないと分かっていながら手を伸ばして、掻き消されると分かっていながらも呼んだ名前に返ってきたのは、予期した女の子特有の高い声では無かった。低いその声は響く様に確かに耳に届いて、驚きに目を丸くしている間に、しっかりと間違うこと無く私の手掴んだ遊星は多少強引ながらに輪から抜け出すと同時に駆け出した。目指すは人混みを避けた路地。歩幅の違う足を揃えずに走り抜けるそれに縺れそうになりながら見上げた、必死さが伺える遊星の横顔と、振り返った先で眉を潜める女の子たちの表情の差分と言ったら。セキュリティ相手にだって物怖じしない所か喧嘩さえ売っていたことさえある遊星が、一般の女の子から必死に逃げている様は中々に面白いものがある。段々と遠ざかる複数の足音に比例して、歩いていた時よりもアップテンポな二人分のブーツの音が、路地に大きく響くのがやけに愉快で、は思わず笑ってしまった。
「大丈夫か、。」
「つ、疲れた…!」
歩幅も違うければ体力にも差分がある。自分よりも遥かに劣るひと一人を引っ張って逃げたというのに、何事も無かった様にケロッとしている遊星は一体何なのか。男と女である以前に、私の体力が人並み以下ならば、遊星の体力は人並み以上だと言えるとしても、やはりこの体力差は頂けない。無いもの強請りの嫉妬と言われても良い、恨めしい言葉の一つくらい飛ばすことを許していただきたい。例えそのおかげで無事に女の子たちを撒くことが出来たとしても、だ。可笑しいだろ、何で息一つ乱してないの、意味分かんない。え?私の体力が無さ過ぎるだけだって?うっ、うっさいなー!んな事言われなくてもこちとら痛感してますよ!でもそれを横に置いておいたとしてもこの差分可笑しいだろ!
「しっかし…遊星が有名人ねえ、」
「…有名人とは、少し違うと思うが」
今思い出しても先程の光景は中々にシュールなものだった。あの時の動揺さえ忘れて、もはや半ば関心しながら改めて遊星を見つめれば、何処か疲れた様に彼は眉を潜めた。おお、体力的には全然大丈夫だけど精神的に疲れてるわこの人。ほんとドンマイ。うっかり、よっ有名人!なんて茶化そうものなら後が怖い。
「…お前は、」
「うん?」
「…いや、何でもない。帰るか」
昼下がりのストリートタッグデュエルを終えた今、特に決めていた予定も用事も無いので今日のところは大人しくガレージに戻った方が身の為だろう。万が一にもあの女の子たちと出くわした時が末恐ろしい。何か言いたげな視線を寄越した遊星が後味悪くも言葉を濁して踵を返す。本来ならば、その背中に続きを促した方が良かったのだろう。しかし、しかしだ。残念ながらそれを追求するよりも強く、私を駆り立てたのは身勝手ながらも別の事柄だった。これ絶対に空気読めてない自信がある。追求とかそんなこと以前の問題で本当に空気読めてない自信がある、ある、けど、
「遊星!」
「な、なんだ?」
妙に気合いの入り過ぎた声は素っ頓狂にも裏返り、伸ばした手は必要以上の力で彼の腕を捕まえた。突然の迫真めいた勢いに押された様子の遊星からは珍しくどもった返事が返ってきた。振り返って此方を覗き込んでくる遊星と視線を合わせ、女の子に囲まれる遊星を見ていたあの時から、一度は否定してもやはりずっと喉の奥で突っかかっていた言葉を、意を決して口にする。
「さっ…サインちょうだい!!」
傾きかけた太陽の日が眩しく差し込む、人気の無い路地。此処に常人なる第三者がいたならば、予想だにしない展開にギャグ漫画の如くずっこけてくれたことだろう。しかしながら、その前に立つのは、大勢からはデュエルキングと呼ばれる凄腕のデュエリストであっても、彼女の前では絆された只の愚かな恋人である。ポカン、と一瞬こそ呆気に取られたものの、遊星は次にフッと口端を上げた。細められた、これから訪れるであろうささやかな星影に照らされた濃紺の夜空を思わせる瞳は優しくの姿を映している。
「…なんだか照れくさいな。」
ゆっくりと、笑みを浮かべた口がそう動いた。自分で言い出したこととは言え、また今までに無茶なお願いをすることはそれこそ何度もあったが、こんな事をお願いすることは初めてだった。いくら幼少の頃から一緒にいても予測することの出来なかった回答に、は反応がワンテンポ遅れてしまった。――そう言い訳をしてみるものの、実際は自分に向けられた彼の微笑に見惚れていたと言う事に変わりは無い。
「いいの!?ほんとに!?」
「ああ。」
「やっ…やった!やった!ああでも色紙とか持ってないやどうしよう今から買いに、――あ、」
「?」
「遊星、ここ。ここに欲しい、サイン。」
そう言って、嬉しさに表情を緩ませながらが差し出したのは左手に装着したままだったデュエルディスクだった。慣れた手つきでそれを外したあと、裏面を向けて遊星に手渡す。デュエルキングである不動遊星のサインを、デュエリストに欠かせないデュエルディスクに書いてもらうなんて、何と贅沢なことだろうか。ポケットの中に持っていたらしい黒のマジックペンを一緒に手渡された遊星は、己の手中にあるそれらを改めて交互に見比べた。幼少の頃から彼女が大切に使っているデュエルディスクは、自分も幾度と無く手を加えてきた。それに対して、今になって所謂サインと呼ばれるものを書くことになろうとは。人生何があるか分からないものである。さて、承諾したは良いが、問題はこの後だった。サインなんて求められるつもりも、ましてや書くつもりも無かった遊星が、自分のサインなどもっているわけがない。しばらく悩んでみたものの、どうしようも無いので遊星はただ「不動遊星」、と自分の字で書いただけだった。簡略化されるわけでも無く、まるで自分の持ち物に名前を書いただけの様なそれを見て、がお礼を言いながらも笑う。
「……」
「あははっ、ご、ごめ。…でもこれじゃあ、遊星のデュエルディスクみたいだね」
「!」
「?」
「…いや、すまない。」
「何で謝るの。こっちの方が遊星らしくて好きだよ。」
それに、もしも遊星がいつかバッチリとサインを考えてみんなに書く日が来たら、それこそコレはレア中のレアだからね。
そう言って不敵に笑みを浮かべた後、改めて返されたデュエルディスクに書かれた文字を指でなぞるは何とも嬉しそうだった。その表情を見下ろしていた遊星が、視線を何処か彷徨わせながらそんな日は来ない、とだけ言いづらそうに言葉を返す。ならば尚更彼女の一人勝ちだということを、遊星は果たして分かっているのだろうか。
「…他のみんなには、内緒にしていてくれ」
「ええ…!」
完全に自慢する気満々だったのだろう。楽しみを奪われただけあって、デュエルディスクから目を離し不満だと言わんばかりに抗議しようとは顔を上げた、が。何処か居心地悪そうに眉を潜めて、視線を彷徨わせていた遊星が、の視線に気づきチラリと其方を見やる。仄かに染まった頬は、先程彼を囲っていた女の子と同じはずなのに、何もかもが違った。これ、は…予想外過ぎた。滅多に見ることの出来ない、恥ずかしそうにする遊星を前に、どうして私が冷静で居れただろうか。や、無理。絶対無理。連られてカアアッと、自分の頬が熱くなるのが分かった。な、なにその顔。反則だろ、異論なんて御座いませんとも、ええ、
「し、かたないか…」
サインがもらえたという事実だけで十分というものだ。例えその事実を私と本人以外の誰もが知らないことであっても、この事実は私にとってそれ程までに大きい意味がある。遊星はデュエルキングになんて興味がないけど、他の女の子は貰えなかったけれど――。
「…。」
火照った顔を秋風が攫っていくまで、どれ程の時間が必要だったろうか。そんなに長くは無かった様にも思うし、けれどこうして幸せに浸れる程の時間はあった気がする。赤くなった顔を見られたくなくて、再び俯いてしまっていた顔を上げた頃には、もう遊星は穏やかに笑っていた。あ、勿体無いことをした、と内心後悔した。遊星の瞳の奥で、悪戯に擽る小さな流れ星と、先程までの照れくささを残した夕暮れが伺える。
「もう一つだけ、書いてもいいか?」
「?何を、…もしかしてサイン?」
面と向かって自分でサイン、とはやはり言いづらいらしい。無言で頷いた遊星に嬉しくも思ったが疑問が残る。
「いいの?けど何処に、っ。」
急かす様に思えるほど、言葉を待たないまま真っ直ぐ指差された。え、と言葉に詰まったまま、意図が分からずにすっぽりとグローブに覆われた指先と表情を見比べる。説明が欲しいです不動くん。というより、「サインとかマジかよ」みたいな考えから一転してまで書きたいなんて、
「まるでオレのデュエルディスクの様だと、言っただろう?だから、」
だから、って。つまり、それは
「!…あ、あー…。」
言わんとしていることが理解出来た。出来てしまった。面と向かって言われて、恥ずかしいったらありゃしない。じわじわと冷ましたはずの熱が戻ってくるのが分かる。しばらく視線を泳がせたあと、はまるで先程サインを承諾した時の遊星と同じように、照れくさそうにはにかんだ。
「…いいよ」
それは君と私が特別な証
(そしてその実はただの独占欲)
「あれっ?、グローブ外さないの?」
日もとっぷりと暮れて、美味しそうな晩御飯の香りが鼻を擽る。やれバイトだ、やれ出かけたまま帰って来ないやら、やれ一区切りつくまでパソコンに噛り付いて離れないやらで全員が同時にテーブルにつくのは中々に骨が折れるのだが、この日はすんなりと揃うことが出来た。いただきます、と暖かい湯気を立てるご飯を前に手を合わせたとき、ブルーノが首を傾げた。
指先が出ているとは言え、ご飯の時は必ずグローブを外していたはずのは今日に限ってそれをつけたまま。忘れていたのだとしても、手を合わせればいくら何でも気づくだろう。それでも外す様子を見せないのは、つまり今日は外す気が無いらしい。
「えっ。ああ、あははー」
「行儀悪ぃぞ」
そう言うお前は口の中の食べ物を飲み込んでから話せ。とも言えるはずが無く。注意してきたクロウに軽く謝罪を入れながらも頑固として外す様子を見せないに、チラリと視線をやった遊星は誰にも気づかれないように少しだけ口元を緩ませた。グローブの内側書かれたもう一つのサインは、いつになったら陽の日を見るのだろうか。
20121112