「少し、目を閉じていてくれないか」
向かい合う様にして正面に立つ遊星が、その口元にうっすらと微笑を浮かべる。その僅かな変化に反比例するかの様に、細められた青金石の瞳は思わず息を呑んでしまう程に優しさを滲ませていた。
勿体ない、と正直に思った。否定何て到底出来ない所か、少しばかりの謙遜さえ、照りつける様に注がれる愛情の前には許されない。まるで冒涜だとでも言わんばかりに芽吹く前に地に葬られてしまう。そんな感情を感じられる、満ちた瞳を向けられて、そして見つめ返せるこの瞬間に、目を閉じろだ何て。わざとなのだろうか、と考えてしまうもきっと目の前の彼は本当に無意識なのだろう。心の奥で不満を愚痴っても、頭の中で勿体無いと駄々を捏ねても、結局私という人間が遊星からの滅多にないお願いを断ることなど出来るはずも無く。これから何が起こるのかという溢れんばかりの好奇心と、目を閉じることへの複雑な思いを胸に、戸惑いがちな返事もそこそこに従った。
情報の何割かを締める視覚が使えなくなった今、ただそこに突っ立っているだけでも不安を覚えてしまうのは致し方ないと言えるだろう。遊星が近づく足音と気配がして、信頼している相手だとも言うのに小さく眉を潜めてしまう。眠る時とは違って、意識的に目を閉じている姿は人から見ればどんな表情なのだろうか。慣れないことに強張ってしまっている私の顔を見たらしい遊星が、喉の奥で小さく笑う。ちくしょう、自分で目閉じろって言ったくせに。何でわざわざ醜態を晒しているような状況になっているのか、解せない。後で覚えてろ。ますます眉を潜めた私の不機嫌さに気づいた遊星がすまない、と小さな謝罪と共に私の眉間を指で伸ばす。思ったよりも結構な距離にいたらしい、瞼の向こう側で確かに感じられた光が閉ざされたのが分かった。遊星の影がかかったのだろう。一体、目を瞑らせてまで彼は何をしようと言うのだろうか。王道だけれどキスでもされるのかな、何て考えていると不意に首筋に遊星の指先が触れた。
「!」
「まだだ」
驚きに肩を揺らすが早いか、一歩後退しようとした私を正反対の、落ち着いた声が制止する。驚かせたな。何てことの無い言葉にも関わらず、耳元でそっと囁く遊星は狙っているのだろう。狙い通り、耳から入り込んだ低いそれは打ち鳴らされた大きな鐘の様に鼓膜を震わせて、ゾクゾクした感覚となって足のつま先まで走り抜ける。暗い視界のおかげか、自分の心臓が動揺しきっているのがいつも以上に分かった。本当にこの人は何をする気なんだろうか。抱きしめるかの様に密着している彼の身体に腕を回せば、少しは驚かせることが出来るだろうか、何てことを考える。
重みを感じると言うにはあまりに軽く、けれど確かな存在を感じさせる。もはや鳴ったと表現するのが正しいかさえ分からない程の小さなそれは、すぐに空気に溶け消えて耳に届くことは無かったが、それでも、確かに音を奏でたことだけは分かった。肌に感じる細いそれ――恐らくチェーンだろう――に思わず瞼を持ち上げそうになるが、以前として制止の声をかけられる。え、まだなの?と口を開こうとしたが、その言葉はうなじから這う様にしてゆっくりと後頭部を固定した遊星の大きな手の平に飲み込んだ。
「ゆ、ゆうせい?」
情けない程に狼狽えた声で名前を呼んだ。蛇が伝うかの様にじわじわと私を身体を絡め取る遊星の腕に焦りにも似た、けれど全く違う何かを覚える。空いた手でグ、と腰を引き寄せられれば、首筋に遊星の唇と熱い吐息がかかり、思わずぎゅう、と瞼を強く閉じた。
「――…なんて、な。」
「ッ、」
その言葉を合図とするかの様に、すんなりと遊星は身体を離した。もう開けてくれて構わない、と促されて数分ぶりに視界が広がる。少しだけぼやけた景色が段々と鮮明としていく中で遊星を見れば、悪戯に幼き日を映すゼニスブルー。けれどその奥に宿るの深い深い色に、私が気がつかないとでも思っているのだろうか。此処までくれば今し方の彼の言葉は何にかけた言葉なのか分かったものではない。頬に集まる熱をそのままに思わず笑ってしまえば、観念したように遊星は少しだけ困ったように眉を落とした。
「結構?」
「結構、本気だった」
だろうね。隠したつもりなのにどうしてバレたのかと思案する彼は、私を見つめる細めた瞳が変わらないままだったことに気づいていない。そんな遊星を差し置いて、私は彼がつけてくれた、今この瞬間も確かにそこに感じる微かな重みの正体を確かめるべく視線を下ろした。自分の胸元でキラリ、と光を反射して瞬くそれが透き通る様なピンク色だと理解するのと、視界の端で遊星が一歩動いたのを理解するのと、どちらが早かっただろうか。見慣れた自分のものよりも大きくて骨ばった、けれども長い指先が顎を捕らえる。グイ、と持ち上げられて強制的に広がるはずの視界は、いつの間にか真っ青で埋め尽くされていた。
「…誰かが、してほしそうな顔をしてたからな」
「……、」
しばらくの沈黙の後にそう呟かれたのは、図らずとも結構本気になってしまった遊星の言い訳。小さなリップ音がいやらしく耳に届くと同時に、そっと。奪う様に掠めたのが嘘の様に、まるで怪我の完治した小鳥を空に帰すかの如くゆっくりと解放される身体。
僅かな温もりと感触を残して唇に一瞬、何が起こったのか分からないまま、パチパチと瞬きを繰り返す。呆然と見つめた瞳はやっぱり優しく細められていた。彼の言う「して欲しそうに」と言うのは間、違いなく今の行為のことを指すのだろう。目を閉じていた時、確かにキスでもされるのだろうかと考えてしまった私がいる以上、それはあながち間違ってはいない、のだけれど。して欲しそうな顔までした覚えは、ない。
「自己解釈乙」
「嫌だったか?」
「…ズルいよ、遊星」
咎める様に少しだけ睨みつければ、遊星は少しだけ嬉しそうに笑った。落ち着いてきたはずの熱がまた少しだけじわじわと集まって来るのが分かる。結局その言葉を問いかけられてしまえば、私が返せる言葉など何一つないことを知っているのだから本当にズルい。つまりは目の前の男は全部私のせいだと言いたいらしいです、ふざけんな、他の誰でもない遊星のせいだよ。
「う、わあ…!」
一見こそシンプルだが、ささやかな細工の施された気品溢れる細いゴールドチェーンを首にかけたまま、は胸元で輝いていたそれを手にとってまじまじと見つめた。手の平の上で程よい重さを感じさせてくれるペンダントトップには、チェーンと同じ金色の縁で彩られる透き通った淡いピンク色の石がはめこまれている。すっごい可愛い、と思わず緩ませた口から出たのは何とも拙い感想であったが、頭で考えるより先に出た素直な言葉なのだから仕方がない。第一印象こそ、そのクリアなピンク色から可愛らしいと言ってしまいがちだが、よくよく見てみればまるで己の魅力を引き出す術を心得ている様に、与えられる光全てを味方につけるそれは何処から見ても輝かしく綺麗だ。高貴ささえ伺われる輝きを魅せながら光を透かす一方で、反射させた光を己を見つめる瞳に映し込むその石に歓声をあげるに遊星に口は開いた。
「モルガナイトだ」
「モルガナイト?」
オウム返しに呟いた彼女はその名前に聞き覚えが無かったのだろう。片手にペンダントトップを乗せたまま、しばらく考え込む様な素振りを見せる。遊星からのプレゼントは何でも嬉しい。けれどそれ故に、此処までキラキラと輝く見るからに高価であろうものを貰うとなればやはり少しばかり気後れしてしまうのは仕方がないことだった。そこまで考えてから、は自分の考えに首を振った。自分が遊星から貰ったものを値段で判断しない様に、遊星も値段で決めたわけでは無いことは分かりきっている。値段が物を言うならば、自分にとってはジャンク山を掘り起こして手作りした方が何よりも喜ばしいのは言わなくても分かることだろう。つまり、遊星がこのモルガナイトを選んだのはそれなりの、それでいて他愛のない単純な理由があるはずだ。その証拠が、
「…気にしなくていい。」
一瞬だけ顔に出してしまった、申し訳なさを見逃さなかった遊星の言葉だった。口にしなくても考えていることが伝わってしまっているのは時として困り物だが、今は与えられる愛情をしかと感じられる要素の一つでしかない。見上げた遊星の表情は、気にしたその先の考えさえもお見通しの様で酷く穏やかだった。
「…敵わないなあ、」
貰った自分が言うべき言葉は、彼の金銭事情を心配する言葉でも、謝罪でもない。
「ありがとう、遊星。大切にする」
「ああ」
小さな違和感を残す、いつもより少しだけ重い胸元が嬉しくて仕方がない。本来の定位置である胸元に就くことも許さず、ついつい手に取ったままモルガナイトを見つめてしまう。どれだけ勉強すれば今この瞬間の感情を表現出来るだろうか。否、どれだけ秀逸な言葉を並べてこの石の綺麗さを伝えられたとしても、遊星からのプレゼントだというこの幸せの前にしては全てが言葉足らずになるのだろう。緩みきった口元のまま眺めていると、添う様にして遊星が同じようにモルガナイトを覗き込んで来た。少しでも見えやすい様にと手を上げれば、自然と私の視界も上がる。そこで初めて、思ったよりも遊星の顔が近いことに気がついた。先程の様に特に意図したわけでもない距離でやはり捕らえてしまったのは、彼の瞳だった。否、吸い込まれる様に逸らせなくなったそれは捕らえられたという表現の方がしっくり来るのかもしれない。色んな青色が集まっている彼の瞳は、今は影が差していてミッドナイトブルーだった。濃紺の夜空の中にうっすらと輝きを失わないでいるお星様は、光が当たればそれはもう綺麗に輝くのだろう。それこそ、私にとっては目の前のモルガナイトにも負けない程に。まるで静まりかえった真っ暗な公園で見上げた満天の星空の様に、寂しさを感じさせない真夜中を見せてくれるその瞳はまさに彼の人柄を指すようで、大好きだった。
「?」
しばらくモルガナイトを見つめていた遊星だったが、瞳から目を反らせないままでいる私を不思議に思ったらしい。小さく私の名前を呼んだその声は、一重に低いというだけでは物足りなく。けれど的確に表現出来るほど私のボキャブラリーは豊富では無い。どんな雑踏にいても掠めれば耳に残る透明感、けれどしっかりと芯の通った声が私の名前を呼ぶ度に、どうしようも無い衝動感に駆られる。声も好きだなあ、と感じた所で結局それがただの欲目でしか無いのかもしれないという事に気づいて思わず笑った。
「ううん、何でもない。…遊星はさ、モルガナイトみたいだね」
今手の中で踊るモルガナイトの様に、自分の魅力を最大限に魅せる術は分かっていないけれど、無自覚なだけで、色んな人を魅了出来る。透明な心の中に固い意志を宿している所とか、あとは曖昧でしかないんだけど、何となく、似てるなあって。率直にそう思ったからこそ何とかそれを伝えようと口にしたのだが、如何せん言葉にすればする程自分の感じたものがうまく表現出来ずにこれじゃない感だけが募ってくる。これじゃあ何を言っているんだ状態だ。無理に足掻くよりも大人しく黙っていた方が身の為かもしれないな、と思い始めた所で遊星がそっと息を吐いた。
「知ってるか、。」
モルガナイトに惹かれる人は、少し寂しがり屋な所があるらしい。
話の流れ上か、それともこんなに綺麗な石に隠された心理にか。何にしても突然口を開いた遊星のその言葉はあまりに予想外で、思わず眺めていたモルガナイトから視線を外して再度彼を見上げた。うっすらとピンク色を映していた瞳には、今や驚いた表情をした自分が映りこんでいる。
「いつも誰かの愛情を求めているのかもしれない、とも。」
「…」
「オレは、」
モルガナイトの先に君を見る
(「この石の先にお前を見た。」)
その云われを知ったのは後のことだったが、初めて見た時、真直にそう思った。それが、遊星がこのモルガナイトを選んだそれなりの、それでいて他愛のない単純な理由だった。
「…っ、遊星、」
一拍子のあと、何とか喉から絞り出した声は震えていた。込上げる言葉にならない衝動に邪魔されて、気を抜けば頭の中まで塗り潰されそうだ。の手から零れ落ちたモルガナイトが、チェーンに支えられて定位置である胸元に還る。
「…すっごい、それ、殺し文句…っ!」
顔を真っ赤にさせて、じんわりと水分を含んだ瞳を彷徨わせながらもぎゅうと抱きついてきたを遊星は強く抱きしめた。
リア充爆発しろ。ただのプレゼントネタと言えば通るオチになってることに後になって気づいた。
20121225